インターネットは感情のゴミ捨て場ではありません
フランスの16歳少女がSNSで、黒人とイスラム教を侮辱する発言をしたことで、少女の元へ多くの批判が寄せられ、中には殺害をほのめかす脅迫文まで送られてくる事態に発展、少女の学校を管轄する教育委員会が彼女に自宅待機を命じたというニュースが報道されました。
少女はSNS上でイスラム教を「くそみたいな宗教」であると表現し、「コーラン(の教え)は憎しみの宗教だ、その中には憎しみしかない」とも発言したとか。さらにはそれらの発言を「冒とくする権利」と主張したようです。
インターネットは感情のゴミ捨て場ではありません |
ネットには人を嫌いになるきっかけが多く潜んでいる
今や世界のいたるところでイスラム教徒によるテロ行為が発生しており、多くの民間人が標的とされ命を落としているのは事実のようです。先日も、パキスタン・アフガニスタンの復興支援に尽力していたペシャワール会の中村哲氏が、イスラム教徒と思われる何者かに襲撃される殺人事件が起きました。
自ら情報収集しなくても、ほぼ毎日のようにイスラム過激派集団がどこでテロを行い、何人の犠牲者が発生したというニュースが流れてくるため、このフランス人少女は「イスラム教とは無差別に人を殺しても良いと教える宗教だ」と受け止めたのでしょうか。
誰にでも嫌いな人がいて当然です、価値観や生活環境、信じるものも違うのですから。思わず大声で相手をののしって気分を晴らしたくなるのも理解できます。
ただし、身近な子供同士がケンカの末に「あんたなんか大嫌い!この~野郎!」と言い合うこととは次元が違うのですね。SNS上での発言や記述は不特定多数の人目に留まり、いつの間にか拡散してしまうもの。
自分を不愉快な気分にさせた当事者にだけ言ったつもりでも、その相手と同じ宗教の信者や似た特徴を持つ人々も同様に侮辱されたと感じるでしょう。
ネットを見ていると、「不適切なコンテンツ」という言葉を時々見かけるのですが、ひょっとして最も不適切で「有害」なのはニュース報道ではないだろうかとワタシは思うのです。
「知る権利」の持つ危うさ
もちろん人には「知る権利」があるわけですけど、中には知った事実を自分もやってみようと考え、実行する者もいるのです。凶悪な犯罪でも具体的な描写をしたり、犯人の生育環境や犯行に至った経緯を掘り下げて取材し、記事にする。知る権利と共に「表現の自由」も認められているとはいえ、人々に具体的な殺意を誘発しかねない表現も自由なのでしょうか?
似た境遇の人たちに、「あなたもそうしなさい」と心のスイッチを入れてあげているとは言えないでしょうか。たとえ事実であっても公にしない方が良い核心部分もあるのではないかとワタシは思うのです。
良い言葉を意識して発する
話が脱線しましたが、良い言葉も悪い言葉も、それを見た人たちに影響を与えるのですから、それなら意識して良い言葉のみを発してみませんか?
「私はあなたたちが大嫌い」
そうした言葉を投げ合った後には、より過激な非難の応酬へと発展することでしょう。言葉だけでは相手をギャフンと言わせることが出来なくて苛立ち、やがて血を流し合う。最終的な形が「戦争」です。
ネット上にもよく見られる他者への批判コメント。前述のフランス人少女もわざわざSNSで侮辱発言をしたのは、「他の人や大人たちが毎日していること」を真似した結果なのかも知れませんね。
憎悪の対象が自分だけでなく、身の回りの誰かに飛び火してしまうかも知れないという想像力を働かせて、なるべく「良い言葉のみ」を発するのがインターネット上でのマナーではないでしょうか?
インターネットは感情のゴミ捨て場ではないのですから。